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ティファナ競馬場にやって来たジョッキー志望の少年が、もう少し体重を減らさないと無理だといい渡されたことがあった。
ホースマンたちは少年に、馬用の毛布を2枚まとわせ、40度を超える炎天下、トラックをえんえん走らせた。
いじめ男たちの注視するなか、少年はトラックに向かったが、そこで志望を撤回し、そのまま町に帰ってしまった。
結局少年は2度と姿を現さず、2枚の毛布も戻ってこなかった。
Pも似たようないじめにあったが、彼のやる気はそんなことでくじけはしなかった。
「おまえのケシを鞍で殴って、さあこれで馬に乗れるぞといったのは誰だ?」とレース前に発走委員があざけるようにいうと、「あんたのケシを殴って、さあこれで発走できるぞといったロクデナシとおんなじヤツだ!」といい返す。
Pは、いつまでも興味を惹きつけてやまない、地上でたったひとつの場所を見つけたのだ。
一文無しでいつも空腹だったが、それでも妹のEによると、彼は「とっても幸せ」だった。
Pは2度とエドモントンで暮らすことはなかった。
母親は息子の行く末を心配していたが、ほかの子どもたちの前ではその気持ちを隠した。
息子に会いたいと熱望し、息子を見捨てた後見人の男に怒りを燃やしていた父親は、なんとか数ドルをかき集めて遠路バンクーバーに向かい、スタンドから息子の騎乗する姿を見た。
バグボーイに課されていた厳しい規則のせいで、Pは父親の前を通りかかっても、ふり向いてその顔を見ることすらできなかった。
金銭的な理由から、父親も母親もきょうだいも以後2度とPのレースを見に来ることはなかった。
Pは自分の居場所を見つけようと奮闘した。
1926年には6回しか騎乗の機会がなく、勝ったのは一回のみ。
だがEの薫陶を受けて、彼は次第に本領を発揮しはじめた。
ティファナですごした最初のシーズン、彼はプリザヴェーターという馬を、なんとか一丁前にしようと苦闘していた盲目の調教師、ジェリー・Dと知り合った。
3年間で46回出走し、わずか5勝1敗である。
すでに7歳で、人間でいえば30代後半のランナーが、20歳そこそこの相手と競っているようなものだった。
DはPをプリザヴェーターのジョッキーに加えた。
Pが面倒を見はじめると、馬の戦績は劇的に向上し、6勝をあげ、3千百70ドルというかなりの額の賞金を獲得した。
レースが終わるたびにPは、プリザヴェーターの公式記録を大声でDに読んで聞かせた。
成績がよくない時は、プリザヴェーターがすばらしい走りを見せた話をでっち上げ、負けたのは、単純に運が悪かったせいだと思わせるようにした。
Pの努力はDを元気づけると同時に、ほかのホースマンにも感銘を与え、あちこちから声がかかるようになった。
1927年には、騎乗の機会がかなり増え、時には勝利することもあった。
彼のちょっとした成功に、目をつけた人物がいた。
グレイシャーパークでEの馬を駆るPを見て、FというホースマンがEと連絡を取り、いくら払えばあのジョッキーを譲ってくれるかと切り出したのだ。
短い交渉を経て、取引が成立した。
Pは安かった。
実際のところ、ふたつの鞍とわずかな馬勃、そしてたったふた袋のオート麦と引き換えで、彼は、Fの厩舎に移った。
Iは彼の研修を配下の調教師、Rの手にゆだねた。
Pがめったにない騎乗技術の持ち主であることを知った。
生まれついての感情移入の深さと、小競馬場を巡業していたときに馬とすごした経験から、Pには調子の悪い神経質な馬の心を見通す力が備わっていたのだ。
誰も近づこうとすらしない馬を、Pは乗りこなした。
鞭は極力ひかえ、代わりにあぶみを普通より長くして、すねで優しく馬たちを駆った。
馬たちは彼の優しいあつかいに応え、彼がまたがるとリラックスして、実力を出し切った。
Mの下で、Pは凶暴で厄介な馬の専門家として知られるようになり、時おり、そうした馬で勝利を収めた。
ほとんどの騎乗はささやかな賞金を目指して走る売却競馬の馬だったため、Pの稼ぎはさほど多くなかった。
彼はわずかな稼ぎの大半を父親に送り、おかげで父親はなんとか家を手放さずにすんだ。
残りはたいてい、金に困った友人たちに貸してやることで消えた。
Pは人がよく、1927年、涼しいバンクーバーの夏、ランズダウン競馬場の厩舎でIは初めてJを見かけた。
Pはさぞかし目を見張ったことだろう。
なにしろWは上から下まで、自己主張のかたまりだったからだ。
最初に目につくのは、ど派手なカウボーイ装束だった。
てっぺんが平らでポークパイハットと呼ばれる形の純白の帽子、重そうな飾りのついた指輪、くすんだ灰色のサングラスつきの革ジャケット、派手に飾り立てられたズボン、力強い肩に合わせて仕立てられ、なんとも形容しがたい色に染め上げられたシャツ、そして動物の姿を打ち出した純銀の飾りのついたハンドメイドのブーツ。
際立ってハンサムなWの髪は、濃いブロンドで、それを当時の流行に沿って7:3に分け、後ろになでつけていた。
彼はMふうにあごを上げ、ほかの誰も知らないことを自分だけは知っているかのように、口の端をつり上げて、押し殺した笑みを浮かべた。
ゆっくりと、間延びした口調でしゃべったが、その目は猫のように明噺で鋭かった。
ウエスタン調のアートで部屋を飾り、西部劇の映画雑誌を愛読し、蓄音機でシンギングカウボーイといわれたJの歌を聞き、バグボーイ友人たちはたとえ一文無しになっても、彼に泣きつけばすぐに2、3ドル都合してもらえると知っていた。
彼はとても、返してくれといえなかった。
「おれは絶対、糊のついた金をばらまくなんて真似はできなかった」と彼はのちに独特のいい回しでふり返っている。
だが彼は数多くの騎乗をこなし、およそ一割の勝率を上げていたため、どうにかやっていくことができた。
鞍に座るようになって2年、いよいよPは成功の糸口をつかんだかに見えた。
1927年の夏、17歳のWは超然とした存在で、頭が切れ、なにもかも桁はずれだった。
これほど騎乗の才能に恵まれた男はいなかったろう。
Wは騎手として、理想的な血統の持ち主だった。
母親のRはサーカスの曲乗り芸人、父親のHは駅馬車の御者であり、カウボーイの経験もあった。
で、Wはよく父親を「大金をもっていたことは一度もないが、速い馬と強いブルドッグは欠かしたことがない男」と評していた。
兄たちもプロの調馬師で、Wも生まれる前から、馬に関係した仕事につくものと思われていた。
1910年5月31日、カナダ南西部のアルバータ州カードストンという小麦栽培と牧畜の地で、妻が息子を産み落とそうとしていた時、夫は医者に問いかけた。
いつから、この子を馬に乗せられますか?医者が辛抱を説いたとしても、その言葉は完全に無視された。
カードストンと、のちにはモンタナ州パブの広々とした景色のなかで成長したWにとって、世界とはつねに、馬の耳のあいだから見るべき風景だった。
「きっと馬に乗って生まれてきたんだと思う」とWは感慨深げに語っている。
馬に乗るのは誇張抜きに、「歩くのと同じくらい自然なこと」だった。
少年時代の彼は、自分の足で立つよりも、馬の背ですごす時間のほうが長かった。
「馬はおれの身体の一部だ」と。
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